「告知」は必要か?
世界自閉症啓発デー2016!
4月2日は世界自閉症啓発デーだそうですね。
東京タワーなども青く染まっているそうで、見てみたいです。地方民カナシス…
twitterの#自閉症啓発コラボ2016ハッシュタグ参加記事としたいです。締切過ぎてから書き始めるという体たらく、、申し訳ないです
というわけで、今回は
障害の告知やカムアウトについてすこし書いてみようとおもいます。
長くなりそうなテーマなのでさわりだけになるかもしれません。
最初に結論を言えば、自分は
「当事者の特性を本人も周りも理解するために『告知』は早いうちがいいと思うけど
それが『病名・障害名』の告知である必要はない」と考えます。
本人にとっては、というか自分の場合は、何らかの特性が目につくとすれば(そしてそれが障害の所以であろうと判断できるのであれば)
学校に上がるくらいまでには教えてもらいたかったと感じます。
今から思えば、ですが。
なぜなら学校という場所は、それまでよりも「逸脱」が許されにくい場所だし
周りの様子を読んで合わせて、うまくやっていくことを強く求められるからです。
(でも。もしも本当に子供の時に教えられたなら、どうだっただろう?重くて大きすぎて、受止めきれなかっただろうか?)
そうも思うけれど。
「告知」というのは、暗い重たい雰囲気で「あなたは、こういう障害があって一生治らない。他の子と同じにはなれない」と告げることではない。
「あなたにはこのような特性がある。それはあなたが悪いせいで生まれ持ったのではないが、他の子にとってはあなたの言動を嫌に思う原因になり得るので、対処法を身に着ける必要がある」
そう教えられたなら、むくれたりやさぐれたりしながらも努力できたはずだ。
「自分にはこのような特性がある」と知らなかったら
周りとうまくいっていないことだけはわかるのにどうしたらいいかわからないままだし
周りに「自分にはこんな特性があるので、こんなことが起こるかもしれない。よくない点に気づいたら指摘してほしい」と伝えることもできない。
逆に言えば、必要なのは「うまくやる方法」で
本人と周りが冷静に、事務的に 特性を分析し、対応を考えられるのであれば
「病気」や「障害」を持っている、という「告知」は必ずしも必要ないのだろう。
「障害名」はやはり未だに、マイナスの意味を付与され得る強大な「定義」だから
知識も心構えもない人が突然聞いたら、思考停止からステレオタイプの憐れみと嫌悪を抱くことのほうが多いかもしれない。
「障害」だから、と名前を付けて定義してしまう・「だから仕方ない」とスルーしてしまうのは、楽な方法ではあるのだと思います。
本人・周囲、お互いのために、「その特性について知ったうえで、どうやってうまくやるか考え、実行する」のは難しい道なのでしょう。
けど、本人も周りも、誰もが容赦なく「社会的な関係」の中にいる。
「自閉症」「障害」という強力な定義の言葉の影響を、ちょっと待てよ、と措いて
「コミュニケーションの障害なら、うまくやっていく方法が必要だよね?どうしたらいいだろう?」と一緒に考える姿勢が、皆のプラスになるんじゃないかと思います。