大人の対応はためになりません
自分の場合、年齢が年齢なので子供のころは特に「気がかりな子」扱いもされず
児童相談所案件になることもなかった時代に育ったわけで
(言うまでもなく「発達障害」という概念自体がなかった時代ですし。「知的障害」という言葉だって、あったんだろうか?普通に「精薄」とか「知恵おくれ」とか呼ばれてたんじゃないかな)
そのまま大人になってしまった後で
「自分の認知の仕方や反応の仕方は世の中の99パーセントの人とは違うようだ」
ということを自覚した、わけで
周りが社会人ばかりの中にいると皆さん「大人の対応」でスルーしてくれる(であろう)ことも多々あるわけで
つまり、なんとか自分で色々考えて分析して「こういうふうに答えるべきだろう」とか「ふつうはこういう風に思うもんなんだろう」と得た結論をどこかで検証しなければならんわけで
「他の人間はたいていこういう風に考えるから、あなたはこういう風にふるまうべきだ」
ということを教えてもらうのを「療育」と呼ぶならば、小さな子供の時から――小学校に上がるくらいの年齢ごろには、療育を受けられたら良かったのになあ、と思います。
(療育というかソーシャルスキルトレーニングとでも呼ぶのでしょうかね、これ?)
で、「もしも子供のころから、まわりにもっと適応できるように教えてもらえるんだったら、このように言われたら良かったんじゃないかな」
と思うことをかいてみようと思います。
1)タイトルにもしましたが、「大人の対応」はお互いのためにならないと思います。
ほら、空気読めないから。話の流れ分からないから。行間読めないから。大人の表情読み取れないから。
雰囲気で「ダメなの」と示すとか「言わなくてもそのうち分かる」とか「困った顧客扱いでスルー」とか、された方は「何も言われなかった、注意されなかった、何が正しいのか教えられなかった」という事実しか認識しないです。
結果、「正しい言動」=「社会的に支障が起きない言動」を学習することができず、同じことを繰り返す。周りは嫌な気分になるけど本人は「わかってない」ままだ。「周りの人がなんだか怒っているらしい」ことは感じ取れるから戸惑う、萎縮する、けど具体的に「どうしたらいいかわからない」状態が続く。…あとは判るよね?
「具体的にどうせぇっちゅうねん」つうと、あれですよ。犬の躾と同じ方式。
「その場で指摘し、淡々とノーと言う」やり方です。
「お前は今、このような言動をした」と事実を指摘し→
「それは、私や他の人にはこう感じられて不愉快だ」と事務的に述べ→
「だから、こういうふうに言う/ふるまうべきだ」と淡々と指示する、これです。
ただ、上記で少し執拗に表現しているのですが
あくまで「事務的に」「淡々と」、です。
自分の場合、というエクスキューズが入ってしまうのですが
人の口調は「怒ってる」か「怒ってない」かでしか認識できないうえに、すこし興奮した口調だと「怒っている→怖い音」と感じてしまい、内容を聞き取れなくなってしまうので。
(いらっとすることをこちらがしているから指摘してくれるわけですし、それに感情を乗せるなとか、無茶を言っているなぁとはわかっています)
ネット上の書き込みなどで「旦那がアスペなんだけど、指摘や注意をすると烈火のごとく怒るからイヤになる」だとか見ることがあるのですが
個人的には、「注意されたことに腹を立ててるというよりは、怒った言い方が耳に障ってパニックになってる」のが近いんじゃないかと思ってしまいます。
2)と、いうか…うん、「社会的に何が正しいのか」がそもそもわからないんですよね。
普通は「周りの大人の様子でわかる」とか「自分がされて嫌なことをしないのは当たり前」なのでしょうが、それが根本的に理解できてないですから。そこからだから。
これ以上は心の理論の問題を論じることになるので、別記事にします。