世界は眩すぎる

広汎性発達障害(いわゆるアスペルガー)疑いの一社会人が、自分の自閉症的な部分について書いてみます。できるだけ淡々と、「自分の認知の仕方」と「どうしてそう感じているのかについての推測」を書き出してみるのが趣旨です。

可愛くない子供(6)

(承前)

一週間以上空いてしまいましたが…

 

同タイトルの過去記事で、自閉症スペクトラムのあるお子さんを「理解できない」と仰っていた親御さんの話を書きました。

その中で、「(その子は)ずーっと同じ、笑ったような顔をしてそこにいる(なのでちょっと気持ち悪い)」ということについて、推測を述べてみます。

 

これは、「表情認知が鈍い」という、感覚鈍麻の問題につながっていると思います。

 

別の過去記事においても、

「人の表情は、かなり大げさなものでないと認知できないようで

ちょっとした表情はおそらくどれも『無表情』としてカテゴリ分けされる」

「人の顔は、正面向きから見た顔のパーツの総体として、メモリに蓄積されているのかもしれない」

といった趣旨のことを書きました。

 

つまり

「大げさな表情じゃないと、学習できない」のではないかと推測します。

「ああこの表情は『嬉しい』を表すんだなあ」とか

「この表情は『怒っている』ときのものなんだなあ」と、親やまわりの人の表情から学習するわけですが

学習元となる表情のどれもが、「明らかに嬉しい/怒っている」など「おおげさな」ものである

(なぜなら、微妙な表情=「無表情」であり、つまりそれは表情の学習元ではない)

そのために、学んだ表情を自分が表出させるときにも「(一般的には)おおげさな」ものになるのではないかと思います。

 

(※感情を表す表情は本能的なものであり、学習する必要はない、という意見はあると思います。

それに対しては、「ある程度本能的に表情表出は分化しているものの、豊かな・こまやかな表情は周囲からの学習によって身体化される」のではないかと考えます)

 

上述のお子さんの場合は、いつも「笑ったような顔」をしている。

おそらく本人は「無表情でいる」つもり、あるいは「自分が笑ったような表情であることを認知していない」のではないかと思います。

 

自分のことにひきかえて考えてみると、

「笑って!笑顔作って!」といわれると、ものすごい笑い顔しかできないように思うのです

どの程度が「ちょっと上品に笑顔になってみた」笑い顔なのか、わからない。体がついていかないのです。ちょっとづつ顔をゆるめて、さぐりながら「いつもの顔」に近づけていくしかない。

 

そして演繹するなら、

・声音がいちいち大げさな子

・感情表現がやたらと大げさな人

彼らの大げささの一因は、「声音や感情表現に対する認知が鈍い」ことにあるのかもしれない、と推測できると思います。

 

可愛くない子供(5)

承前

同タイトルの記事で、自閉症スペクトラムのあるお子さんを「理解できない」と仰っていた親御さんの話を書きました。

今回はその中で出てきた、「『おとうさん、おかあさん』と呼びもしない」ということについて、推測を述べてみます。

 

(お子さんのいる方には不愉快かもしれない表現を含みます注意)

 

自分の経験に基づいて考えるなら、という前置きをつけさせてもらいますが…。

一言でいえば、「『おとうさん、おかあさん』と呼ばれないことが悲しい」という感覚が理解できないです。

「子供に呼ばれなかろうが親だろうが、けしからん」という意味ではなくて。「?なんで悲しいという感情につながるの?」と思ってしまう。

 

自分が子供のころのことを思い出すと、親をあまり呼ばなかった気がします。

見える範囲にいるなら、呼ぶよりも近づいて行って、手をつかんで、欲しいもののところまで連れて行った。

親が怒って「置いてくよ!」と言って歩き始めると、「おかあさん」と呼びかけることや「待って」と叫ぶことが、どうもうまくできず

(親から見ればいきなり)泣きだして固まっていた。

 

おそらく。

あなたがわたしの「おとうさん」であることは「明らかな事実」だからです。

あなたがわたしの「おかあさん」であることは、口に出して報告するまでもないことだからです。

そして「口に出して報告」することは、結構がんばって声に意味を乗せ、大いに発信しないといけないことだからです。

 

つまり、「おかあさん」と呼ぶことは

「あなたはわたしのお母さんなのですね」と確かめる意味以外に、

「わたしはお母さんが好きです、と表現している」意味を含む

ということがわかっていなかったように思います。

可愛くない子供(4)

(承前)

同タイトルの前記事で、発達障害を持っている子が「○○をやります!と堂々と宣言するものの、実際の行動に移さない」という問題を持っている例をあげました。

それは、「動作を実際に始めるにはかなりの気合いを必要とする」という問題もひとつの原因であるように思います。

 

自分で記憶を思い出すとこれもかなり痛いのですが

 

親「おきなさいー」

自分「うん」

親「はやくー」

自分「うん」

親「遅れるよ?」

自分「うん」

親「遅れるってわかってるでしょ!?」

自分「うん」

親「いいかげんに(略 」

自分「…うん(まだ起きない)」

 

といったことが多々あったように思うのです。

 

なんなんだろうなああれは。あまのじゃく?怠惰?

命令に対しての委縮?反抗?いや、そんなロックなもんじゃない。

「今まで続けていた動作を止めて、他の動作に切り替える」ことには結構気合いが必要なんで、じっと同じことを続けているほうが楽、なのでした。

 

「ああ、もうこの変な座り姿勢をやめてあの本を読みはじめなきゃなあ」

「もういい加減にこれを眺めているのをやめなきゃなあ」

とは思うのです。今やっている「変な姿勢」や「ビー玉を眺める」ことがなんの意味もないし、やらなきゃいけないことが止まっていることもわかっているのです。

でも、体勢を変えることや動作をやめることの「思い切りがつかない」とでも言うのでしょうか、

かなり意識的に「ここをこう、動かして」「立ちあがって」、と確認しないと変化の動作がだいぶ怪しいです。

 

怒られて、パニック起こして、わあわあ泣いて。けど泣きやみたいのに、別に泣いていても気持ちよくなんかないのに、どうやったら自分が泣きやむのかよくわからなくて。泣きやむ動作がどういうものなのかよくわからなくなって、結局しつこく泣き続けていた。

傍から見ていたら、たとえば「泣いてないで落としたおもちゃを拾えばいいじゃん」とか「ごめんなさいって言えばいいじゃん」と思うのでしょう。

けど「動作を止めよう/切り替えよう」と思いながらなぜか身体の動きにつながらなくて、延々と同じ動作を続けてしまって。

 

いわゆる常同行動って、そういう感じなのかもと思います。

別にゆらゆらしてるのが楽しいわけでもない。その行動を続けようとこだわっているわけでもない。ただ、止められないでいる。人から止められると、「その動作を止める」ことで起こる変化を恐れるのか、怖いと思う。

 

ちょっと心身問題にもつながってきそうな雰囲気を感じます。

可愛くない子供(3)

なんだか一週間ほど空いてしまいましたが、同タイトルの前々記事にて

発達障害の子の親御さんから見た問題点その2、

 

「何か言っても応答するだけで行動に移さない(例:「○○をします!」と約束するけどまともにやり通したことなんてない)」

ことについて。

 

…いや本当に、我が身を振り返ると大変、大変に痛い、です。

たとえば小さいことでは「ご飯食べなさい!」「食べます!」から

大きめのことでは「この学校/会社に最後まで通い通す意思はありますか」「はい!」まで。

 

先に言ってしまいます。言い訳ではないです。

「やります!」と言っているときは、本気でそう思っているのです。

ただ、そう宣言することが、具体的に「何をする」ことまで含まれるのかがわかっていなかったのです

 

たとえば「この仕事をやりますか?」「やります!」というやり取りがあったならば

ある形に完成させた成果物を相手に渡し、「確かに受け取りました。お疲れさまでした」と連絡が来てはじめて、それを「やった」という事実が達成される、

それが分っていなかったように思うのです。

 

だから「確認してね」という言葉とともにある作業を振られた場合、

「確認する」というのは、たとえば

1)正しいリストと、出来上がったばかりのエクセルファイルを見比べる

2)正しいリストとエクセルファイルとで、相違点を見つける

3)エクセルファイルをリストにあわせて訂正する

4)それを、リストの最後まで繰り返す

という一連の作業の総体である、そのことをまず確認する必要があります。

自分の場合でいえば、3)が「確認する」ことに含まれることがわかっておらず

2)の相違点に印をつけただけの状態で依頼者に提出する、

ということがあったように思います。

 

なのでたとえば上述のお子さんの場合、

夏休みの宿題をちゃんとやる意志はありますか?」「あります!」→宿題を手をつけただけで投げる というやりとりがあったのだとしたら

「宿題をやる」ことは、イコール

・宿題冊子に載っている問題について、すべての空欄に答えを書きこむ・答え合わせをする

・その冊子を夏休み明けに提出する

・以上が行われたことを、先生と親御さんに確かめてもらう

これらの作業の総体である、ということがよくわかっていない、

そしてそれを、親御さんや先生に確かめる必要があることに思い至らない、

そういう問題なのではないかと推測します

 

だから、端的には

「最後のページまで答え合わせした状態の冊子を先生に提出し、それが返却されれば、『宿題をやった』ことが達成される」

「もしも一部の問題を解いただけでやめてしまったら、君は『宿題をやります』と言ったのにうそをついたことになる」

ということを最初に確かめあうのが良いのではないかと思います。

 

 

ただ、「今やります、と言ったとおり、動作を始めなければならない」と思いながらも、立ち上がる/歩きだす/本を開く といった動作を実際に始めるにはかなりの気合いを必要とする、という問題もあるように思います。

これについては記事を分けます。

可愛くない子供(2)

一つ前の記事で、自閉症スペクトラムのあるお子さんを「理解できない」と仰っていた親御さんの話を書きました。

今回はその中で出てきた、「どこに連れて行っても楽しそうな様子がない」ということについて、推測を述べてみます。

 

自分の場合をたとえとして出します。

小さい頃、親に連れられて観光地に行ったことがあります。地元の旧跡だったり、海だったり、あるいはお祭りだったり。

街に連れていかれたこともあります。デパートや遊園地や、ショッピングセンターのプレイスペース(って言うんですかね)だったり。

 

どこに行っても。「楽しかった?」と聞かれて、笑って「うん!」と答えることがほとんどできませんでした。

 

慣れない場所の景色は、どこも一斉にぐるぐるうねって光りながら自分のほうに飛び込んでくるようで、「ここが一体どんな場所なのか」を把握しようとする試みで精いっぱいでした。

辺りにはたいていたくさんの人がいて、みんなの声はわあわあ響いて、今まで知らなかった環境音や空気の匂いが全方位からのしかかってきて、親が話しかけてくる声はかき消されて聞こえませんでした。

 

たとえば博物館や美術館に連れて行ってもらったこともあります。

でも、具体的に何を見て楽しめばいいのかがわかりませんでした。

展示品を見れば「すごいなあ」と思うし、「きれいだなあ」とも思うのです。けど「普通の鑑賞方法」がわからない。他の人たちがどこを見て感心しているのか、どのくらいじっくり眺めるものなのか、そもそもどっちに向かって歩くものなのか、読み取れなくてわかりませんでした。

(さらに言えば、「親にくっついて行ってまねをする」という対処法には、これっぽっちも思い至りませんでした。この点についてはまた別の記事にします)

 

一言でいえば、「雰囲気を楽しめない」んだと思います。

そもそも「楽しそうな雰囲気」だということが認識できないし、新奇なものたちからの感覚情報が周りのすべてから飛びこんでくるのでくらくらする。

さらにいえば、「ここは、何かを面白がるべき場所である」ことも、「ここでは何を面白がったら無難なふるまいであるか」も把握できない(そもそも普通、そんなもんは教えられることなどないし)。

 

書き出してみて思った。親は困ったし腹も立っただろうなあと。

せっかく楽しいところに連れてきたのに、子供は無反応のまま萎縮していたりその辺ふらふら歩いているだけなわけだし。

 

一旦、ここで切ります。