聴覚的認知が不利であることについて(補足)
「聴覚情報の認知が弱い場合、自分に向けられている声や言葉の内容をうまく捕えられず、結果的に聞いていないように見えるのではないか」
といった趣旨のことを書きました。
今回は逆に、「認知できる」ことに関して補足しておきます。
繰り返して言いますと、聴覚的認知が弱い場合
自分にかけられる声も、そうでない知らない人の声も
「人の声という種類の、ひとかたまりの音」に聞こえます。
すると、四方八方から何通りも降り注いでくる色々な音の塊の中から
なんとかして自分に関わりのあるだろう有意味な単語を拾い出し、認知し、意味を考えて、対応する必要があります。
「普通」だったら、周りの雰囲気や近くの人の態度で、何が・誰の言葉が自分に関わるもので、対応が必要なものかを読み取れるのかもしれません。
しかし当方は、「聴覚的認知の弱さ」がある上、さらに「周りの雰囲気や近くの人の態度を読み取れないし、どれが重要な情報か取捨選択する能力にも欠ける」ようなのです。
そのため、「このひとかたまりの声は、自分にとって重要な情報が含まれる」ということを判定するために
基準となる単語を脳内に登録しています。
「「単語A」「B」「C」…が認知された場合、それを含むひとかたまりの声は自分にとって重要な音声情報なので、注意を向けるべきだ」と自分にプログラムするいうやり方です。
登録される単語は、たとえば自分の名前だったり、「こちらを見てください」という合図の声だったりします。
ただその単語登録が、周囲の人が期待するものと違うものだったとしたら。
たとえば
「見てください」という単語が登録されていることを期待されているのに反し、実際には「これを」という単語が登録されている場合や
自分の名前が登録されておらず、その時興味のあるモノの名前だけが登録されている場合は
傍から見れば、
「突然、変なタイミングでとんでもないところに向かって走り出した」とか
「自分の興味のある単語にしか気を向けない」といった結果になるでしょう。
正直、小さい頃はそもそも認知できていなかったことがあります。
それは「自分の名前が呼ばれた場合、自分には興味がないとしても大切なことが伝達されることが多いので、注意を向けるべきだ」とか
「『聞いてください』という呼びかけが含まれた場合、当然伝達される情報として伝わっていることが期待される」
という前提です。
おそらく、周りの人にとって「普通」の前提が、やはりはっきり教えられないとわからなかったのだろうと思います。