世界は眩すぎる

広汎性発達障害(いわゆるアスペルガー)疑いの一社会人が、自分の自閉症的な部分について書いてみます。できるだけ淡々と、「自分の認知の仕方」と「どうしてそう感じているのかについての推測」を書き出してみるのが趣旨です。

障害程度区分の判定と自閉症スペクトラム

すこしお久しぶりです。

 

 

今回は障害程度区分の判定の面接に行っていた時の話をします。

 

福祉の法律上「成人」になる、つまり18歳になると、福祉事業所が提供している、就労や入所などの障害福祉サービスを契約できるようになります。

そのためには「障害程度区分」といいまして

障害の手帳の等級とはまた別口の、区分判定を受ける必要があります。

(障害の手帳は単純に、身体や知的能力や精神症状の数値的な公的証明書。

 「障害程度区分」の判定というのは、どの程度の介護が必要かを判定するもので

 介護保険制度に申し込みしたときのケアマネさんの面接とだいたい同じと考えていただければ)

(※過去記事も参考までに)

 

で、ですね。

自分が知的障害福祉の仕事にかかわっていた当時は、障害者自立支援法が施行されて数年くらいのときで

ちょうど、「知的障害の人は身体障害の人に比べて障害程度区分の判定が軽くなりがち、難しい」とか

「同じくらい重い知的障害の人同士を比べても、判定結果がだいぶ違ってくることがある」

といったことが分かってきた時期でした。

そしてそれは、実際に(区分判定する側としても)だいぶ悩ましいことでした。

 

知的障害の人の場合、本人や家族から話をお聞きするやり方に気を張ったり、詳しく話を聞くために時間がかかったり…は、もちろんなんですが

自閉症スペクトラムが入ってるか入ってないかで、その難しさも段違いでした。

 

自閉症傾向 のない知的障害の人だと、だいたい判るのですよね。

「あ、これくらい重い知的障害だったらこの生活動作は一人じゃ無理だよね」とか。

だけど一言で言うと、自閉症の入っている知的障害の人は、それが人によって違う。周りの人に話を聞かないとわからない。

そして、自閉症の入っていない知的障害の人に比べて障害程度区分が軽く判定されやすかった。

「この動作はできる」「この動作はできない」と○をつけていくと、「えっ?」ていう介護度が弾きだされることが多々あった。二次審査で区分を引き上げる必要が多かった。

 

その理由:

当時の障害程度の判定基準は、いろいろな生活動作を、できる時が多いかできない時が多いか、でした。

かなり自閉症が重くて、つまり「総合的に見て重い知的障害がある」とされている人でも、生活動作「自体」は割とできちゃうんだよね。

トイレ入って、ズボンさげて、便器に座って、お尻拭いて、パンツ上げて、ってのはできちゃう。蛇口ひねって、コップに水入れて、蛇口止めて水を飲む、という動作だけだったら普通にやってたりする。

 

ただそのトイレ動作一連を済ませたあと、延々と肛門を掘り返してしまうという「こだわり」があったり。

水をくんで飲む動作は自分でできる…んだけど

水を見ると「手元のコップを満たして飲み干さなければならない」という「こだわり」があるために延々水を飲み続けたり。

そして制止するとパニックになっちゃう、暴れる抵抗する泣き叫ぶ、介護者の方が危なくて仕方ないとか。

そういう面で介護度がすごく高い、というケースがとても多かった。

 

つまり、重い知的障害+自閉性障害の人の場合

「できること」と「介助が必要なこと」が人によって全然違って

それはつまり「動作や物事の手順を順序良く処理する知的・身体能力」が健常者よりも小さいから、というよりも

「順序良く処理されるべき動作や物事」と「その人の持っている社会性の障害」の間にものすごい混乱や相克が起こる、そのために介助が必要

という印象を持ちました。

 

知的障害の程度スペクトラム自閉症の重さのスペクトラム

全く別軸なのではないかと思うのは、この経験があるからです。

 

あ、障害程度区分の判定基準は今はまた変わってるようでして

http://www.mhlw.go.jp/bunya/shougaihoken/other/dl/140121_01.pdf

ざっと見た感じ、自分が経験したころよりはだいぶ改善されているんじゃないかなあという印象です。各々の生活動作や場面について、「支援が必要だとしたらどの程度か」が基準になっているようなので。

 

 

障害程度区分の判定についてはまた記事を書くかもしれません。