他者の心を理解する心(2)
前回の記事で、
人の心を植物にたとえるならば、自分のそれが生えている場所は他の人とは全く違う座標上かもしれない、というような表現をしました。
(…いささか詩的な表現なので少々気恥かしいですが)
なぜそう考えたか、ひとつ例を出します。
「夜、あなたは事務室にいて、仕事をしています。
部屋の逆側に、同僚がひとり、仕事をしているようです。
同僚は机を片付け、鞄を持って席を立ち、歩いていきます。
そして、電気のスイッチを消して部屋を出ていきました」
自分がこの人の立場だった場合、「同僚」に対してどう思う?と聞かれても特になんとも思わないのですが
…ふつうはこれ、「わざと電気を消した」「嫌がらせか」と思うもの、だと知って本当に戸惑いました。
(念のため申し添えますが、サバサバした人アピールとかする意図などないです)
「電気を消した」動作がなぜ「私を嫌いだから」という理解に繋がるのかが、その思考の過程が、本気でわからないのです
たぶん。「電気が消えた」という事実しか、自分は認知できないのです。
電気が消えた、それを行ったのはこの場合でいえば「同僚」である、その二つの事実しか「存在しない」のです。
まぁこの年なんで、これまでに色々学習した知識と突き合わせてじっと3分くらい考えたら
「…もしかして、わざと、かな?」という仮説を出すことはできるかもしれないですが
そこから「わざとだとしたら、いやがらせのため、かな?」と推測をたてるのは、また3分ぐらいじっと考えて分析しないと無理です。
もしも実際の場面で、また別の方法で「いやがらせ」などをされたとしても、おそらく自分は何とも思わないのでしょうね。動作や態度の結果生じる「出来事という事実」しか認知できなくて、その発端となった他者のこころに思い至らないから。上述の例でいえば、「あれ、電気消えた」と思いながら普通に電気をつけに行き、そのまま仕事を続けると思います。
マイペースを保てて幸せだね、といわれたらまぁその通りなのでしょう。
でも。向けられている悪意を認知できないのなら、同様に好意も黙殺してしまうということですよね。
結果的に、いろいろと損をしているんですかね。
人の「気持ち」が、どこから発しているのか、座標が定められない。予想もつかない。
なので、困るのがこの言葉。
「人の気持ちを考えろ」
…自分が同じことをされたとしてもなんとも思わないからです。
もしそう言われたら、文字通り「考え」て、分析して、推測するしかない。
そして結論が導かれたとしても、それが「合っている」かどうかを検証するすべは、ほぼ、ない。
「そういう時は、こういう風に思えて、だから不愉快に感じるものだ」ということが、そもそも教えられないとわからないですから。そこからだから。