【災害ボランティア】モノよりお金、そして人手
少しお久しぶりです。
このブログの趣旨とは外れますが、災害ボランティアのことについて少し書いてみようと思います。
8月に起こった、丹波や広島の皆様には本当にお見舞い申し上げます。
先に書いてしまいますが、この記事の内容はボランティアに行った話ではないです。
以前、地元で災害がありました。
そのときに、災害ボランティアの受付や義援物資の仕分けをしました。
何年か経って、東日本の震災の時にも、義援物資の仕分けをする機会がありました。
そのときに感じたのは、善意の力と
同時に、善意の(悪い意味での)力、でした。
以下、長文がまとめられない気がするので箇条書き気味に書いてみます。
★災害ボランティアに行きたい場合
災害ボランティア行きたい!という熱意をお持ちの方が行動を起こすなら「お住まいの地域の」災害救援系NPOや市民活動支援センター等にまず問い合わせることが一番合理的。
現地のボランティアセンターや役所に問い合わせるのはやめてもらった方がありがたい。
ちょっと考えればわかると思うんですが、災害後のごたごたの現地にとっては
問い合わせの電話やメールに対応してる時間があったら何件現場を見に行けるよ、って話ですよ。
それに現地では、「まだまだ現場は復旧されてないです」「人手は欲しいです」としか言いようがないんですよね。そのときたまたま対応した人の主観も入るし。
「お住まいの地域の」市民活動センターへ、と上述したのは、ひとつはこの理由です。
比較的客観的かつ具体的に、「あとどのくらいの支援が必要か」という情報を「今こんな感じらしいね」とすぐ教えてくれるのはむしろ現地以外だったりする。
もうひとつの理由は、出発地域のボランティア希望者を組織的に送り出してくれるから。
災害ボランティアは、自分の身の処し方(要するに食料と寝場所)を確保してから行く必要がありますが
個人が単身、特に準備もせずに熱意だけ持って「なにかできることをください!」と乗り込んでも、はっきり言って被災地にとってはただの迷惑です。
(銀英伝的表現ならば「弁当を持たずに野遊びに参加しようとする」でしたでしょうか)
お住まいの地域のボランティア支援センター等で、ボランティア希望者の登録をしているのでしたら
「被災地ではどういう装備が必要で、どのへんの地域でどんな作業をすると思われるか」を教えてもらえるかと思います。
また、被災地は、各地からそれぞれまとめて(ある程度の集団として)やってくる人手を手に入れることができます。
これは個人がぱらぱら来るのを捌くよりよっぽど効率がいい。やってきた集団をそのままある地点に投入できるわけだし。
土砂災害でも地震でも、たいていボランティアはある程度の人数でまとまって作業をする必要があるので。
・迷惑だったボランティア希望者の問い合わせ;
「ゴミの片付けするの?そんなことすると思ってなかった」
「車で行きたいんだけど通れるルートを教えて」
「現場周辺で使えるコンビニ教えて」
「何日か滞在したいから安く泊まれるとこ(略」
「なるべくなら無料で泊ま(略」
「無料宿泊所開設して」
「なんで無料宿泊所を用意しないんだ阪神大震災のときは云々」
ほかにも色々言われた気がするけどもう覚えていないです。
まとめると「単身で熱意しかないボランティア様は邪魔」ってことでした。
★義援「物資」の寄付は、最終的には「迷惑なモノ」になってしまいます。
東日本大震災の時、義援物資の仕分けをすこしする機会があったのですが
そのほとんどは被災地では「不要なもの」で、はっきり言うと
「被災地に運ばれることすらなく処分されるだけ」だったそうです。
今だから言える「要らなかった支援物資」 - 東日本大震災【第二の災害】 - NAVER まとめ
なんで今になっても物資を送りたがる人が多いんだろうか。
推測はできるんですよ。
目の前から「義援物資」の山がなくなるわけですから、寄付した人は達成感があるんでしょう。
だけど、それを送る前にちょっと考えていただきたい。
「それを被災者に公平に届けるために、
何日・何人・何㎡・何Lの燃料・何円が必要になる?
それは誰が負担する? そのうち被災地の持ち出しになるのはどのくらい?
せっかく現地に届いても、その頃には不用品でしかない可能性は?
要するに、物資を寄付したという自己満足でしかなくなる危険性は?」
もしもこれを見てくださっている人に、生徒会・PTA・教員…の方がいらしたら声を大にして言いたい。
学校で義援物資を集めても奉仕活動にはなりゃしません。満たされるのは達成感だけです。
むしろ「もしも義援物資を送ったとしたら、それはどういう経路をたどるか?」と考える社会の授業のきっかけにしていただきたい。
東日本大震災のときの義援物資寄付関係で、ばかじゃないかとすら思った話は
「学校で粉ミルクの寄付を集めている。うちだけ寄付しないわけにもいかないからスーパーで買って持って行った」
だったのですが。
物資の寄付とはそもそも「うちに余ってるのを出す」んだから
赤ちゃんのいない家はそんなことする必要ないし、っていうかなんで付き合いの一貫になってるの、っていうか物資買い占めの一端を担ってどうする、とまぁどこから突っ込んでいいのかわからなかった。
(あと、もう少し考えるなら、粉ミルクって対象年齢やメーカーによって仕分けられた状態で届かなきゃいけない。
それを思うと、物資の寄付はメーカーの社会貢献活動に任せるべきだと思った。品物の種類ごとに無駄なく梱包された状態の新品を届けられるのは、やはり企業からの直送だ)
★寄付金についてはまずこのへんに目を通してから
広島市土砂災害、丹波豪雨災害への緊急支援情報 [ボランティア] All About
今まだ受付中かどうかを確かめたうえで振込するのが良いかと思います。
阪神大震災や東日本大震災のケースでは、当事者支援に動いた団体も多数あったそうで
(例:アレルギー持ちのお子さんの家族会(?)は、避難したアレルギーの子に安全な食料を届けるべく動いたそうです)
(詳しく調べられずすみません)
漠然と寄付するのは何もした気がしないし、という場合は、上述のような当事者活動に寄付する選択肢もあるし
現地にボランティアに行く人の交通費をカンパする、という形もありだと思います。
災害支援の役に立つのはまずお金。そして人手。
被災地のすみやかな復旧を祈るばかりです。
ウイスパー・ボイス
「適度なボリュームで声を発することが難しい」という話です。
どうやら自分の場合、普通にしゃべっているつもりでもだいぶぼそぼそ声で話しているようで
「え?」と聞き返されたりけげんな顔をされたり
雑談なんかだと「…よくわからない」と流されたり
ということが割とよくあるので、たぶん自分が思っているようなボリュームで声を出せていないんだろうなあ、と思うわけです。
単に滑舌が悪いうえに早口なのかもしれないですが。
と、いいますのも
実際自分が声を出してるときって、「自分の声がわあわあ響いてるだけで、何をしゃべってるのか自分でもよくわからない」という状態でして
口を「それを言う形」に作ってるつもり→たぶん自分はこう言ってる、という感じなのです
ぼそぼそしゃべってれば、そのへんがまだマシで。自分の喋ってる言葉が、まだ比較的聞き取れる。
ただそのボリュームだと、自分にはよくても人様にはまともに聞こえない、ということなのでしょうね。
自分が何をしゃべっているのか不安で、それを確かめようとすると結果的に「小さい声でしか喋ってない」。「もっと大きな声で話しなさい」といわれる。
の、ですけども。
自分の声が「わあわあ響く音」にしか聞こえないレベルにまでボリュームをあげると、それ以上は程度の差がわからない。
声の大きさという目盛は「1,2、たくさん」しかなくて、
「大きな声」に目盛をあわせようとしても「適度に大きな声」も「どなり声」も差がないもので
無駄にデカい声で話してしまい、今度は「ちょっと静かに!」と注意されることになる。
みんな、しゃべってるときって自分の声ははっきり聞き取れているものなんでしょうか。
ちょうど良い大きさの声は、どうやって調節するものなのか。
身体的訓練が必要なのだろうな。
「今すぐ怒りを表明しなければならない」
衝動性ってどう抑えたらいいんだろう。
自分が怒りを感じるポイントを掴みきれてないのも原因だと思うのですが
怒りを感じると
「今すぐに、怒っていることを表明しなければいけない」
と責めたてられているような感覚がする。
あるいは、「今すぐに『××』(たとえば反論)を言わなければならない」
と急き立てられる感じがある。
それで、大袈裟な怒りの表情を作ってしまったり、あからさまに乱雑な動きをしてしまったり、いろいろ。いろいろ。
で、後でそのときのことを思い出してしにたくなる。
一人になれるところに行けばいいのか。深呼吸でもしたらいいのか。
状況的にそれができない場合はどうしたらいいのか。
他の人はどうしてるのか。怒りなどの衝動を外見上看破されないよう振舞う技術を、ごく自然に身に着けてるもんなのか。
話戻りますが、「怒りを感じるポイント」が何かと思い返してみると
「いきなり予想外のところから反応を(言葉でも行動でも)求められる」
とか「予定が狂った」とか「今日いっぱいのスケジュール程度の見通しが読めない」とかがまず思いついたので
怒っているというか予定変更パニックに近い気もします。
で、それが「表出されなければならない」と、全身全霊で思ってしまう。
そのときは、「後から後悔するだろう」ということに思い至らない、
正確には思考のほとんどが「怒り」に占められてしまって、相手がどう思うかとか考える余裕がない。
そして後で壁に頭ぶつけたくなる。でもこれがまた、「そのとき」の相手に何て言ったらいいのかわからんのです。
「後悔してる?」「反省してる?」と訊かれたら、全力で頷くだろう。
でも、もやもや感じている「後悔」を、どうやって表現したらいいのかわからなくて黙りこんでしまったり。
自分の場合は、幸いにも(?)衝動的に手が出るタイプではないようですが
怒りから混乱を起こし、衝動的に罵声を上げる物を壊す、そういう物理的被害を引き起こす例とそう遠くもないわけで
…調べたら何か方法があるのでしょうか。
というようなことを、佐世保の事件の断片的報道を見ながら思い浮かべたのでした。
被害者とご家族の安らかならんことと
加害者のケースが社会にフィードバックされることを祈ります
「あなたは、一生治らない」(2)
(承前)以前の同タイトルの記事で、
自分が障害を告知される立場だったら、「他の人とはこのような点が違う」という事実と「どのような工夫をする必要があるか」という方法を早く教えてもらいたかった、という趣旨のことを書きました。
でも親御さんの立場で考えると、どうなのでしょう。
(お子さんに障害があることを受け入れることは
おそらくものすごい葛藤を感じる、あまりにも大きい壁なのだろうな、とは予想できますが
今はその点について言を措かせてください。)
(また、自分は子供を持った経験がないので、人の親の気持ちなんぞわからないくせに色々言える立場じゃない、という点は全くそのとおりだと思います 以下、完全に推測です)
どうなんでしょうね?
お子さん本人に、「あなたには障害がある、他の子と同じようには(おそらく一生)ならない」と告げることは。
やはりものすごい抵抗を感じるものなのでしょうか。
本人に向かって「親が」宣言することで、その子がたとえば「欠陥品」あるいは「異常なモノ」だと確定させてしまうような?
あるいは、たとえばその子が「治る」可能性を否定するような?
もしかしたら、その子を産んだ自分を自己否定するような?
地域やおじいちゃんおばあちゃんのお考えによっては
「あまりおおっぴらに子供の障害のことを言うものじゃない」という圧力(?)が親御さんにかかってくる、ということが起こるのは理解できます。
でも、周りの大人におうちの事情を話すことと
障害の子本人に「あなたはこんな状況だ」と事実を教えることは別なはずです。
そして、障害の子本人が、長期間にわたってなんとか社会的にうまくやっていかなきゃいけない→そのためにはスキルが必要→そのためには本人が自分の特性を分かっているほうが近道、ということは事実なはずです。
それでも障害の子本人に、障害特性について教えないのは、失礼ながら
「親御さん自身がお子さんの障害について分かっていない、
またはお子さんに障害があることに納得がいっていない、
あるいはお子自身がそんなこと知らなくていいと軽く見ている」
のどれかではないのかと思ってしまいます。
要するに、自分の意見としては
「まず本人に障害特性と社会的共存のスキル取得方法を教えた方が良い、勉強が得意なのを伸ばすも芸術の才能を伸ばすもその上での話だ」
ということです。
「あなたは、一生治らない」
障害自認、というのでしょうか
「あなたには障害がある」と告知すること、の話です。
(自分の場合、かつ、告知される側、としての書き方をします)
まず、教えられなくても自認するかどうかですが
身体障害だったら、本人はいやでも自認するでしょうね。
自分は他の子と違う格好をしている、あるいは他の子にない病気を持っている。他の子と全く同じ条件で体を動かすのが難しい、何らかの道具を使う必要がある。
知的障害や発達障害だったら、どうでしょう。生まれつき、いろんな点で認知能力に問題があったとしたら。
自分が、なんだか他の子と違うらしい、ということはわかるんじゃないでしょうか(本当に重い知的障害だと、その辺の認知がどの程度なのか、ちょっと推測できないですが)
だけど具体的に「何が違う」のかわからない。自分はいっしょうけんめい「ふつう」にふるまおうとしてるつもりなんだけど、どうもうまくいかないらしい。他の子はなんでうまくできるの?自分は馬鹿なんだなあ。
子供同士って、よく思い出してみればそうなんだけど
似たような年だからとか共通項があるからって仲良く遊ぶもんじゃないし、むしろちょっと外れた子や集団についてこれない子には容赦ないし。
なので、自分が子供の立場だったら
(1)君の思考や認知のしかたは他の子たち大多数と違う
(2)それは生まれつきのものだ、おそらく脳機能に障害があることが原因の一つだ
(3)他の子たちとうまくやるには、多数派であるその子たちの思考や認知のしかたと自分のそれとの違いを知っている必要がある
といったことを、小学校にあがるころには教えてもらいたかったし、うまくやる方法を叩きこんでもらえたらよかった。
(1)(2)は単に事実ですし、(3)は本人が自分の身を守るための知識(というと大げさかもしれないですが、いじめられない方法、と言っていいと思う)が必要だよ、と指摘されるだけのことだと思う。
知らないままでいたら、自己評価が下がる出来事ばかり起こるわけで。
「本人に知的障害があったら、そんなこと言われてもわからんだろうに」という考え方は否定しません。重い知的障害があったら、言葉の意味を理解すること自体が難しいでしょうから。
でも、「あなたには知的障害があるから、知識の取得やその応用がむずかしい」「だからいろいろ工夫しよう、手伝ってくれる人がいるよ」ということを、なんとなくでも知っているほうがいいと思う。
必要なのはとりあえずうまくやる「方法」。その基盤となる「知識」。
その子は、認知能力に障害がある という条件で他者との関係を持たなきゃいけないのだし、すでに社会生活を送っているのだから。
その点、「あなたには障害がある」という告知は、「あなたは不治の病に罹っている」という告知とは違うように思う。
「病名とタイムリミットの宣告」ではなく、「現状と方針の確認」である必要がある、と言い換えた方が良いかもしれない。
「あなたにはこういう障害がある。こういう傾向があり、他の子とはこう違う」と本人に教えるということは、
言ってみれば、たとえば
「いや実は、あなた以外の人間は後頭部にも耳があってね、みんなは後ろの音もはっきり聞こえるもんなんだよ、それ前提でお喋りしてるんだよ」
と知らされるのとどう違うだろう?
それに対する反応として、「私はめっちゃ可哀想だ、同情されるべきだ」とか「私は欠陥のある人間だ」とか…思うだろうか。
自分だったら、他の人には世界がどんな風に見えているのか不思議に思うし、自分の認知している世界とどう違うのか知っておきたいと思うけどなあ。